@Yohei_Zuho 処世術として、反省文を上手に書くスキルとか、反省文という形で赦しを与えるという(日本の)世の仕組みを知るのは便利ですが、そういう目的意識を持って教えるわけじゃないですよねw
クソくだらないですが、そういうくだらないのを一切無くした社会もまた住みにくく[要出典]、ここは一考の余地があります。
@noellabo なるほど文章トレーニング…
一切なくせとは言いませんが反省文は個人的に悪しき文化かなと…
@Yohei_Zuho 文章自体は通り一遍でよくって(それなりにコツはありますが)、そういう「形式」によって社会が何かを許す、というトコロです。
悪しき文化には違いありませんし、クソがと思っておりますがw、これは問題を真っ当に解決できない時の抜け道なのであります。
@Yohei_Zuho だいたい、学校でいえば、教育する側の手抜きの側面が大きいです。
反省文を用いずに解決するには、個人に対応する時間もエネルギーも愛情も圧倒的に足りないですから、あらゆる場面で熱血教師ってワケにもいかないですし。
謝る側も、とりあえず反省文で済んでしまう。これも手抜きです。
また、屈服や妥協する経験を積ませるとか、社会の理不尽さ、毒を飲ませるという意味で、毒に対する耐性をつける効能もあります。どちらかというと、こちらがまだ是とされているきらいがあります。
運動が苦手になったり、文章が嫌いになったり、大人の社会の汚さが嫌になったりするだけならまだしも、心に傷を負うことになり、不可逆なことが多い。一生背負うことになりかねません。
子どもにはまっすぐな気持ちを大切にして欲しいといいながら、理不尽の中で生きている大人が、それぞれにどこまでそれに誠実でいられるかは、その人次第なところがあります。
大抵の大人は、そこまで立派な人間になれていません。ムリ。
立派に生きようと頑張っている背中を見せるのがせいぜいで、結果まで伴わせるのは凄く大変です。
ほんとスマン。
@noellabo なるほど…
素朴な疑問にここまで付き合ってくださってありがとうございます